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"ふくしま"から「ありがとう」の気持ちを伝えよう!

「忘れない暖かいお風呂」 “新着”
 ■菱川 昌子(相馬市) ありがとうの言葉(12)
 
 今まで経験した事もない、大震災・大津波から早一年になります。

 

 私達家族五人は、相馬市立向陽中学校に避難しました。毎日のように余震と寒さで夜が来るのが恐ろしかった。色々考えて、すっかり落ち込んでしまい、どうしようかと思ったりもしました。

 

 それから何日か過ぎて、「自衛隊の方たちにより今晩からお風呂のサービスがある」との放送がありました。本当にうれしかった。広島より来たのだと言って私達を暖かく迎え入れてくれ、風呂の入り口には女性の隊員が一人一人に「いらっしゃいませ」と声をかけて下さいました。あの時の事は決して忘れることができません。ありがとうございました。いつもきれいな風呂で感謝の気持ちでいっぱいです。遠い所より来てくれて、ありがとうございました。

 

 全国からの支援物資・励ましの言葉、本当にありがとうございました。

 今は一歩前に進んで仮設住宅で親子五人、肩を寄せ合って暮らしています。

 全国の皆さんに心より感謝の気持ちを忘れず、ありがとうの心で…。

「人間って素晴らしい」  
 ■江田 節子(浪江町) ありがとうの言葉(11)
       

 3月12日、浪江から避難が始まり、親戚の家から二本松市の体育館まで夢でも見ているような、信じられない光景でした。

 しかし二本松市の方が見ず知らずの大勢の私達を受け入れ、支援してくれた事に感動しました。いままで他人事のように思っていた大災害、もし立場が変わり、支援する側になったら支援したい、とこの時強く思いました。

 その後も行く先々で皆さんに声を掛けて頂き日本人いえ世界中の人間ってやっぱり素晴らしいと感じました。

 いま前を向いて歩いて行けるのは、私に関わっている全ての人達のおかげです。ありがとうと全員の皆様に言えないので、これからも前に進んでいくことが、ありがとうかなと思っています。

「思い」  
 ■河西チイ子(相馬市) ありがとうの言葉(10)
 

昨年の恐ろしい津波、今でも夢の様だ。でも本当なのだ。

目に入れても痛くなかった孫の美沙が津波に遭い、いない。

私の家は大家族。家で息子と孫二人で漁に出て、帰ってきたら家族みんなで手伝いをした。息子も孫も一生懸命働いてくれた。孫家族は4人。全部で9人だった。

3月11日午後2時46分、私達は立っていられず、家の戸口につかまり地震のおさまるのを待った。まさかあんなに大きな津波が来るとは誰も思わなかった。私も爺さんも。

ところが、嫁がラジオで大津波の情報を聞き、機転を効かせて、毛布3枚その他いくつか持って車2台で磯部小学校に避難した。その時、となりの爺さんは誘っても逃げなかった。5~6人亡くなった。

孫は消防団に入っていたので、私達とは別行動だった。津波がゴーと音を立てて来たのは学校に避難してから30分後でした。孫を心配していたが、夜になって孫はずぶぬれで帰ってきた。その時消防団員何人かが行方不明とのことだった。

娘孫は地震後、会社より家に帰る途中で津波に遭いました。家が心配で早く帰って来たかったのだろう。磯部は一面湖になった。家も一軒もなくなった。水が引けて孫をさがし歩いた。一週間後に車の中で見つかった。どんなに寒かったと思うと3ヶ月くらい毎日涙が止まらなかった。

気持ちが一転した。食べ物も着るものもなんにも無いその時、支援物資を頂いた。こんなに有りがたく思った事はなかった。時が経って、仮設ができて入居出来る事になった。その時もボランティアの方々より色々とお世話になり、外国からもいろいろとご支援いただいた事、忘れる事が出来ません。この様な温かい有りがたい事を私に出来るかと思います。

これからどうなるのか不安でなりません。でも生前孫美沙の良く手伝ってくれた事には感謝したい。前向きに考えること、何か楽しみを見つけていくしかないと思います。

どうしても孫美沙の事は頭から離れない。学校時代のバレーの試合で、全国各地家族で応援に行った事忘れられません。私もこれから何年この世にいられるかな。










「紀州農園の梅干し」  
 ■原田澄子(南相馬市) ありがとうの言葉(9)
       


 避難という突然の環境の変化に主人は体調を崩し、あづま体育館での毎日菓子パンと水の食事に塩分を欲しがりました。
  コンビニに行っても食料品の棚は空でしたが1パックの梅ぼしが残っているのを見つけ買ってきました。「梅ぼしがこんなにおいしいものとはじめて気づいた」という病人の言葉に製造元の紀州農園に感謝の気持ちと福島にも早く食品流通が良くなることを願っている旨のハガキを出しました。
  その後農園より励ましのお手紙と梅ぼしはじめいろいろの支援物質が送られてきてびっくりしました。そして、私達避難エリアの皆さんで分けあってごちそうになりました。
  「被災地の復興と気持ちをしっかりもって頑張ってください。」の遠く和歌山からのお手紙に、先の見えない空しい不安病のような日々を過していた私でしたが、しっかり肩に手をかけていただいたような力強さを感じました。


原田 澄子 様

拝啓

 平素は格別のお引き立てを賜り、有難く厚くお礼申し上げます。
 この度は、弊社商品を、ご購入頂きまして誠に有り難う御座います。
 さっそくですが、震災後1ヶ月が経ちましたが、突然の地震、津波、さらには原発の被害では被災地に深い爪痕を残しました。被災された方々に心より御見舞い申し上げます。その大変さは私たちが経験したことのない想像以上だったと思うと、一人でも多くの方の無事と今避難されている方々の、安心で穏やかに過ごせる生活が一日でも早く戻ることを毎日毎日祈っています。
 出来るだけ早く、被災地が復興する事を心から願います。どうか気持ちをしっかり持って頑張ってください。遠く和歌山県から祈っています。

敬具

〒649-1442 和歌山県日高郡日高川町江川2400番地
株式会社 紀州農園
取締役 業務統括本部長兼工場長
岩田 好文
「までいな取り組みで一致団結」  
 ■飯舘村社会福祉協議会職員一同(飯舘村) ありがとうの言葉(8)
 
 3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故につながり、さらに計画的避難区域の指定による全村が避難ということになり、私たち村民の生活を一変させるものとなりました。
 社会福祉協議会では、行政と一緒に村に戻れる日まで健康でいるために、スタッフはもちろんですが、モチベーションを高めていくためにはどんなことが必要なのか日々考えながら、生活支援相談員活動、物資配布、イベント調整に笑顔で対応しています。
 全国からのさまざまな支援をいただき、感謝、感謝の毎日です。ほんとうにありがとうございます。
「龍の年『復興元年』は笑顔で一歩一歩昇ります」  
 ■新地町社会福祉協議会 職員一同(新地町) ありがとうの言葉(7)
       
 4月21日災害ボランティアセンターの活動開始後、北は北海道から南は沖縄県まで、海外からも、ボランティア活動に協力していただき、本当にありがとうございました!
大被害を受け、あの膨大ながれき『被災財』を、多くのボランティアの皆様のパワーとご支援のおかげで、8月に早期収束できましたことに、心から「ありがとう」を申し上げます。
 被災した町民は、4月から6月までに応急仮設住宅に移り、生活を始めております。町外の方の仮設住宅は8月から生活が始まりました。ボランティアセンターの名称は、8月から生活支援ボランティアセンターに移行しました。活動は、主に仮設住宅の生活支援に変わり、 炊き出し、お茶会、足湯、各種イベントなどです。8ヶ所の仮設住宅の住民は、全国から嬉しい支援を沢山いただいて、大変喜んでいます。
 生活も、だいぶ慣れて来たようです、笑顔で、元気に前を向いて、少しずつ前進しています。仮設生活は長期になると思いますので、これからも細く長く 継続してご支援を賜りますようよろしくお願いします。
「“さくら”の笑顔が戻ってきました」  
 ■アクセスホームさくら(二本松市) ありがとうの言葉(6)
 
 3月11日の震災後、「アクセスホームさくら」は避難を余儀なくされ全員ばらばらになってしまいました。 「もう一度、みんなで仕事がしたい!」との思いから、8月1日に二本松市で事業を再開することができました。利用者さん全員は戻ってくることはできませんが、13名の笑顔が戻ってきました。
 私たちの取り組みをNHKさんが放送してくださったことがきっかけで、全国の方々から暖かいご支援、励ましを頂きました。 新たにお菓子作りをすることになり、東京都世田谷区の「わくわく祖師谷」さんからは、寄付を募った義援パンの提供から、ラスクの作り方まで支援を頂き「パンDEラスク」が完成しました。今では、たくさんの方から注文を頂くようになりました。 大阪からは、家具や木工、陶芸など物づくりの仲間の方々が来てくださり、おいしい本場のたこ焼きをみんなで焼いてたべました。とっても元気になれた1日でした。
 本当にたくさんの方々の応援を頂いて、“さくら”の笑顔が戻ってきていることに心より感謝する毎日です。
「これからの未来」  
 ■石塚由実・中学2年(福島市に避難中) ありがとうの言葉(5)
       
 私が「ありがとう」を伝えたい人は、自衛隊の方々です。私の家は、海に近くなかったので津波には巻き込まれずにすみましたが、私の祖父母の家が津波によって全部ながされてしまいました。大好きだった祖父母を突然奪ったあの波。
 祖父母の発見された写真を見ると、これは、現実なのかっと思うような町の風景でした。まるで戦争でもあったかのようでした。自衛隊の方々は、家族のために一所懸命遺体を見つけていて私はとても感動しました。
 私の大好きな家族を見つけてくれて本当にありがとうございました。私は、これからの人生、祖父母に恥じぬように生きていきたいです。そして、まだ行方不明のご家族を1日でも早く見つけてあげてください。
「井戸水をありがとう」  
 ■S・H(福島市) ありがとうの言葉(4)
 
 今回の地震では、直後から停電、断水となり、まずは水の確保が急務でした。福島第一原発が爆発し、やがてその事態の深刻さを知るであろう放射能が迫る中、給水所には屋外で順番を待つ人の長い行列。しばらくこうした日が続くことを覚悟しました。
 しかし地震から3日後、実家の近くで農業を営む家で、井戸水を提供してくれているという情報があり、さっそく伺ってみると、入り口に「水あります」の手書きの看板が。ちょうどその家の方が外に出ておられたので、「水をいただけると聞いたのですが・・・」というと、「どうぞ、どうぞ。遠慮なく汲んでいってください。」とのお返事。見ればその方の家も塀が崩れ、蔵の壁も大きく落ちている・・・。自らの被害もよそに、水で困っている人を想いやるその方に、助け合うことの本当の意味を理解しました。結局、お言葉に甘えるかたちで、大きいポリバケツを台車に載せてその後も何往復かし、長い行列に並ぶことなく、必要な水を十分にいただきました。本当に助かりました。ありがとうございました。
「希望に向かって」  
 ■浪江町サポートセンター杉内 一樹デイサービスセンター /木幡孝男(浪江町) ありがとうの言葉(3)
       
 3月11日、一樹デイサービスセンターはいつも通りの時間を過ごしていました。そして地震発生。利用者さんは互いにしがみつき「早く揺れが収まってくれ」と叫ぶ人、物が倒れないように必死に支える人・・・、恐怖におののく時間でした。
 津波が来て安全な場所まで移動する車中で見た町の風景は無残な姿でした。不安な一晩を過ごした翌朝は原発からの避難命令・・・、利用者さんと一緒に避難しました。そういうなか避難所として受け入れていただいた郡山市のあかね福祉様には美味しい味噌汁をご馳走になりました。猪苗代町の福島県ばんだい荘様には暖かい体育館を用意して戴き、職員の皆様にも何から何まで良くしていただきました。二本松市の安齋裕子様には自宅を提供していただき畳で寝ることができました。ほかにもたくさんお世話になりました。皆様方のご厚情は忘れません。この紙面をお借りして御礼を申し上げます。あれから9か月・・・
 私たちは福島県をはじめ関係機関の支援を受け10月3日より二本松市で避難している方々を支援する浪江町サポートセンター杉内のなかでデイサービス事業を再開することができました。サポートセンターにはこれまで全国各地より多くの支援が寄せられています。誠にありがとうございます。そのご厚意に心から感謝をするとともに、「いつの日か浪江町に帰る」を合言葉に、希望を失わず前を向いて一歩ずつ踏み出して行こうと思います。
「お父さんありがとう・・・」  
 ■H・T(伊達市) ありがとうの言葉(2)
 
 3月11日の東日本大震災の日、私たち家族にとっても忘れられないことがあります。 子どもたちは学校、私は職場、そして主人は岡山から新幹線で福島へ戻っているところでした。実は、翌日には次男のサッカーの大会の応援に戻って来ていました。 主人から、「今、京都付近だから、夕方頃福島へ到着するから」とお昼に連絡がはいりました。 その後、震災になり私は慌てて自宅へ戻りました。すると子どもたちはびくびくしながら外に出ていました。
 そして、心配なのが主人です。携帯も繋がらず…連絡がつかずにいました。 初めて連絡がとれたときは、夜遅くでした。 宇都宮から新幹線を降りて、歩いて近くの体育館に避難していると連絡がありました。子どもたちも心配していて、私が「お父さん無事だった」と話すと、泣いて喜んでいたのが記憶に残っています。
 そして、翌朝主人はレンタカーを借りて、ちょうど福島の人たちが数人避難所にいて一緒に福島へ帰ってきました。この話を聞いてビックリ!! 無我夢中で家族のところに少しでも早く帰りたいという一心で帰ってきてくれたのです。 そのとき、家族の絆を改めて実感しました。

あの時言っていなかった言葉 「お父さんありがとう・・・」
「突然のプレゼント」  
 ■特定非営利活動法人 コーヒータイム/代表 橋本由利子(浪江町) ありがとうの言葉(1)
       
 私達は、3月11日の地震の後、翌12日にはメンバー15名とスタッフ5名は、それぞれ家族と伴に故郷を離れました。
その時はこの様な事になるとは夢にも思わず、2~3日地元を離れていれば良いと考えていました。避難生活が1ケ月、2ケ月と続くなか、これから先のことが、大変不安になりました。
 浪江に帰る日を待った方が良いのか、それとも新しい地で、コーヒータイムを再オープンさせた方が良いのか。
 たまたま、そんな私達の悩みを新聞が取り上げてくださり、みず知らずの人達から、プレゼントや義援金が届くようになりました。その中に手作のミトンが何組か送られてきました。私達は浪江町で活動している時、手作のピザが自慢でした。「あ、このミトンで、もう一度新しい場所でピザ生地を作ろう」と決心させてくれました。今は台所の片すみにぶらさがっているミトンですが、仕事の合間にながめては、あの時、決心させていただいた事を思いだしています。
 又、多数の方々からご支援をいただきました。一歩一歩前に進むことを、背中をやさしく押していただいていると感じています。

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